【6月6日 AFP】40年前の1968年6月5日、「ボビー」の愛称で知られるロバート・F・ケネディ(Robert F. Kennedy)は、若さとカリスマ性を併せ持つリベラルなスター政治家として自信に満ちあふれていた。

 ちょうどカリフォルニア州(California)州での民主党の予備選に勝利し、党大統領候補指名への手応えをつかんだ直後。兄のジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領の暗殺から5年たたずして、兄の影から政治の表舞台へ飛び出した瞬間だった。

 だが、すべてが一瞬で終わった。錯乱状態のパレスチナ人がロサンゼルス(Los Angeles)のホテルで勝利を祝っていたボビーを射殺したのだ。

 ボビー・ケネディの暗殺で、米国は深い心の傷を負うことになった。

■暗い話題の相次ぐ時代が求めた若き指導者

 折しも、米軍と南ベトナム軍に対するテト攻勢(Tet Offensive)があったばかりで、ベトナム戦争での米国の勝利は望み薄だということが明らかになりつつあった。当時のリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)大統領(民主党)も、自身では11月の大統領選本選で共和党に勝てないと認めざるを得ない状況だった。

 2か月前の4月4日には、マーティン・ルーサー・キング(Martin Luther King)牧師がテネシー(Tennessee)州メンフィス(Memphis)で暗殺され、米国中に暴動が広がっていた。

 ジョンソン大統領が党候補再指名をあきらめたことで、ボビーに大統領への道が開けた。3月に出馬を表明、反戦を掲げるリベラル派のユージーン・マッカーシー(Eugene McCarthy)上院議員、保守派のヒューバート・ハンフリー(Hubert Humphrey)副大統領と候補指名をかけて争う。

 若さと家名、司法長官としての経験、4年間の上院議員生活での実績――多くの米国民にとっては第2の「ケネディ・ドリーム」だった。

■祝勝会で凶弾に倒れる

 だが、ボビー・ケネディの選挙戦は短期間で終わった。その日、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテル(Ambassador Hotel)で予備選の祝勝会を行い、ホテルの調理場を抜けて会場を出る彼に対し、パレスチナ人サーハン・サーハン(Sirhan Sirhan)が至近距離から発砲したのだ。

 数発の銃弾は1発が頭部を直撃し、ボビーは翌日死亡した。後にはエセル(Ethel)夫人と10人の子どもたち、そして出産予定日が間近だった11人目の子どもが残された。ケネディ家と米国民は、ケネディ家をめぐる悲劇がまたもや起こったことに大きな衝撃を受けた。

 ボビーの血だらけの頭を抱える若いシェフの写真は世界中に配信された。

■若さとカリスマ、オバマ氏に「ケネディ」を投影する人々

 あれから40年が経ち、ケネディ政権時代のような華やかな時代の再来することを待ち望む人々が今、民主党の大統領候補となったバラク・オバマ(Barack Obama)上院議員を支持している。ほかならぬケネディ一族からも、オバマ氏にはケネディ兄弟との共通点があるとの声が聞かれる。

 1月には、故ケネディ大統領の実弟エドワード・ケネディ(Edward Kennedy)民主党上院議員と長女のキャロライン・ケネディ(Caroline Kennedy)さんが、オバマ氏はケネディ兄弟の精神を継ぐ人物だと示唆する発言をした。

 その一方で、党候補指名レースでオバマ氏に敗れたヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)上院議員は5月、40年前にはボビー暗殺で候補指名争いの流れが大きく変わった事実と今回の激戦を結びつける演説をした。この発言はオバマ氏に不測の事態が起こることを期待しているのではないかとの強い反発を招き、クリントン氏はすぐに謝罪している。

 ボビーを暗殺した犯人サーハンはキリスト教信者の家庭に生まれたパレスチナ人で、ケネディ候補が親イスラエル的なため殺害したと供述していたが、後に責任能力が疑問視され終身刑となり、現在もカリフォルニア州の刑務所に服役している。(c)AFP