【8月28日 AFP】オーストラリアの普通の少女として育ったキャロル・キドゥ(Carol Kidu)さん(58)は、現在は名誉大英勲章第2位のデイム(Dame)の称号を持ち、英国王室のメンバーとも気さくに食事をすることもある。

 「白人女性がパプアニューギニアで政治にかかわるなんてばかげていると、現地の外交官の間で言われたけれど、私は絶対にできると思っていた」

 「夫が亡くなった日から、政治の世界に進出しようと決意していた。夫が死んだのは政治的に不当な扱いを受けたから」と語る。

■パプアニューギニア人の夫

 キャロルさんと夫との出会いは最初から波乱に満ちていた。

 キャロルさんは16歳で、ブリ・キドゥ(Buri Kidu)さんと出会い恋に落ちる。ブリさんはパプアニューギニアの戦士の末えい。出会いは、ブリスベーン(Brisbane)郊外のキャロルさんの実家近くのゴールド・コースト(Gold Coast)のホリデイキャンプだった。ブリさんは当時、奨学金でパプアからオーストラリアのグラマースクールに留学していた。

 2人は1969年に結婚、キャロルさんは20歳だった。2人はパプアニューギニアの島の漁村の丸太小屋に移り住む。

 キャロルさんは教師、ブリさんは弁護士になるが、2人は生活の拠点を村から移さなかった。

 最初の頃、キャロルさんの給与はブリさんの2倍以上だった。キャロルさんの給与はオーストラリア人の水準、ブリさんの給与は現地人の水準だったためだ。

 村の生活における男女の役割ははっきりとしていて、雑用は女性の仕事だったが、女性はかならずしもそのことに不満を抱いているようには見えなかったという。

 「パプアニューギニアの外国人のコミュニティは、私を奇異な目で見ていた。きっと私が、虐げられて男性に従っているんだろうと思っていたはず」

 2人は家庭では対等に暮らしていたが、村の男女の役割には従った。実際、キャロルさんはとても幸せな日々を送ったと過去を振り返る。

■「レディ・キャロル」

 パプアニューギニアにおける外国人と現地人の立場が逆転したのはパプアニューギニアが独立した1975年のこと。ブリさんはその後、法曹界でとんとん拍子に出世して1980年には裁判長に任命される。

 ブリさんはパプアニューギニアの元首を務める英国のエリザベス女王(Queen Elizabeth II)からナイトの称号を授けられ、キャロルさんもレディ・キャロルと呼ばれるようになる。

 ブリさんが亡くなりずいぶん経った2005年には、貧窮者救済の活動が認められ、キャロルさん自身にもデイムの称号が与えられた。

 2人は4人の子どもを授かり、さらに2人の養子を取った。6人の子どもはいずれも法曹界か芸術の世界に進んだ。いずれも実家を拠点に生活しているが、キャロルさんはいまでは主に、自分で設計に参加し近くの部族地域に建てた家に住んでいる。

■白人女性の国会議員

 ブリさんは13年間裁判長を務め、司法の行政からの独立を貫いたが1993年、突然法曹界から追放される。その6か月後にブリさんは心臓まひをおこし48歳で死亡する。政府の非道なやり口が死期を早めたと支持者は指摘する。

 ブリさんの死後、キャロルさんは大方の予想を裏切り、モレスビー・サウス(Moresby South)の選挙区から国会議員に立候補し、白人女性としてパプアニューギニア史上初めて当選する。2002年には再選、社会開発相に任命され今年の7月まで務める。AFPのインタビューに応じた総選挙の日の2週間後、キャロルさんの再選が発表された。

 政界入りした理由についてキャロルさんは社会正義、人権、虐げられた人々の救済を挙げたが、2012年には3選を目指さないことも明らかにした。

 「有権者の要求はとても強烈で、都市部の貧困問題は解決が困難。住民はどこにも助けを求めることができないので、絶えず窮乏との戦いを強いられる」

 「でもそれも現実の一部。そのために努力する私の生活も、その一部」と身振りを交えてキャロルさんはこう語った。(c)AFP