【4月5日 AFP】ニジェールとマリで反政府武装闘争を展開しているトゥアレグ(Tuareg)人。一躍世界に注目されるようになったトゥアレグ人は、ベルベル人を祖先に持つサハラの遊牧民だ。かつては「砂漠の支配者」と呼ばれるほどに権勢を誇っていたが、度重なる干ばつにより、今は貧困にあえいでいる。

 専門家は、トゥアレグ人の人口を100-150万人、ニジェール、マリ、アルジェリア、リビア、ブルキナファソンにまたがる200万ヘクタールの土地に居住していると見る。その多くが、ニジェール(推定70万人)とマリ(推定30万人)に住む。

 彼らは、自分たちのことをアラブ語源の「トゥアレグ」ではなく「ケル・タマシェク(Kel Tamasheq)」と呼ぶ。タマシェク語を話す人々という意味だ。そして、アフリカで独自のアルファベットを持っているのは、エチオピア以外ではトゥアレグ人だけだ。身体は、インディゴで染めた真っ青な布で覆う。「青い民」と呼ばれるゆえんだ。

■活動を活発化させる武装組織

 彼らの一部は反政府勢力を結成した。2007年2月に「正義のためのニジェール運動(Movement of Nigeriens for JusticeMNJ)」は誕生し、政府軍への攻撃を繰り返している。 

 隣国のマリでは、前年5月にトゥアレグ人反政府勢力がアルジェリア・ニジェール国境付近でマリ政府軍を攻撃し、10人が死亡。北部での反政府武装闘争に火をつけた。

 今年3月には、マリのトゥアレグ人反政府勢力が兵士20人を拉致し、全員の身柄は現在MNJの管理下にあるとの報道があった。MNJ側は報道を否定している。

■武装組織誕生の経緯

 20世紀の初め、トゥアレグ人は遊牧をし、らくだのキャラバンで交易をしていた。反植民地闘争の先頭にも立ち、植民地主義のもとでの教育を拒んだ。だがそうしたことが、西アフリカ諸国がフランスから独立した際に雇用機会などが得られないという不利な状況を生み、立場は弱まっていった。

 追い打ちをかけたのが、1973-4年と1984-5年の飢饉(ききん)だ。家畜は死に絶え、若者たちはアルジェリアやリビアの大都市に移住。リビアの最高指導者ムアマル・カダフィ(Moamer Kadhafi)大佐は、彼らの多くをイスラム軍(Islamic Legion)に入隊させて軍事訓練を施した。

 その約10年後、リビアは原油価格の下落で経済が破たんし、トゥアレグ人たちは故郷への帰還を余儀なくされた。やがて、武力で自治を勝ち取るための武装組織が次々と生まれ、刀剣や古いライフル銃はカラシニコフ銃に、らくだは四輪駆動車へと交換されていった。

 そしてニジェールでは1990年5月に、マリでは同年翌月に、武装闘争が開始された。和平合意でトゥアレグの自治権は拡大されたが、5年間にも及ぶこれら2つの闘争で、死者は数百人、避難民は数千人にものぼったとされる。

 当時、トゥアレグ側の武装解除が約束され、戦闘員の多くは政府軍などに組み込まれたが、近年では軍を脱退して武装闘争や強盗を組織する者が増加傾向にある。

 ニジェールでは、トゥアレグ人が、フランス主導のウラン発掘事業における利益の分け前を増やすよう要求しているが、政府は聞き耳を持っていない。(c)AFP