【7月8日 AFP】テニス、ウィンブルドン選手権(The Championships Wimbledon 2012)の男子シングルス決勝に進出した大会第4シードのアンディ・マレー(Andy Murray、英国)は、お酒も飲まず、早朝から活動し、2匹の飼い犬とともに田舎道を散歩する堅実な女性を恋人に持つ男性だ。

 一方、1936年に英国人選手最後のウィンブルドン王者となったフレッド・ペリー(Fred Perry)は、マレーとは異なった性格で、もっと騒々しい人だった。

 1995年にオーストラリアのメルボルン(Melbourne)で85歳の生涯に幕を閉じたペリーは、1930年代に活躍したハリウッド女優のマレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich)やジーン・ハーロウ(Jean Harlow)と関係を持ち、第二次世界大戦(World War II)時には英国籍を米国籍に変更して米空軍(US Air Force)に従事した。

 また、ペリーの経歴や生い立ちを気に入らなかった英国テニス財団(British Tennis Establishment)とは、完全な決別状態にあった。

■英国で嫌われ、米国で人気を集めたペリー

 ペリーは1909年に英国北部の産業地であったストックポート(Stockport)にある綿工場の労働者の息子として生まれた。父は献身的な社会主義者だった。

 家族でロンドン(London)に移住した後、卓球とテニスに出会い頭角を現したペリーだが、ウィンブルドン選手権が開催されるオールイングランド・クラブ(All England Club)では、厳しい風当たりに耐えていたとされている。

 2009年に出版されたペリーの伝記「ザ・ラスト・チャンピオン(The Last Champion)」には、ペリーがウィンブルドン初優勝を果たした1934年大会で、大会関係者が準優勝のジャック・クロフォード(Jack Crawford、オーストラリア)に対し、「あなたの方が上だ」と言っているのを本人が偶然聞いたと記されている。
 
 社交的な性格のペリーは、テニス愛好家が芝生コートに集う息苦しい環境下のウィンブルドンではいつも部外者扱いだったせいか、平等主義で自由な雰囲気が漂う米国ではすぐに成功を収め、人気を博した。

 ザ・ラスト・チャンピオン著者のジョン・ヘンダーソン(Jon Henderson)氏は、ペリーの評判の高さを著書の中でこう記している。

「ペリーはとても端整な顔立ちで、男らしかった。女性に人気があって、彼も女好きだったから、そこからいろいろあった。米国のコラムニストにはペリーのことを『彼がハリウッドに行けば、女性たちはボーリングのピンのように簡単に倒れた(落ちた)。男優たちはネバダ(Nevada)へ行って悔し泣きした』と書いた人もいる」

■英国テニス界にようやく存在を認められた晩年

 英国のテニス界でその存在が受け入れられたのは、ペリーが晩年を迎えた頃だった。
 
 オールイングランド・クラブの元代表であるジョン・カリー(John Curry)氏は、「フレッド・ペリーは英国テニスを世界に知らしめる最高のテニス大使だった。彼の素晴らしい性格と寛大な心は、様々な面からチャンピオンと呼ぶに相応しい」と称賛している。

「彼は選手、ファン、メディアなどテニスに関わるすべての人に愛され、称賛された。それを1人で成し遂げてしまう稀有な人物だった。ペリーは最も若いファンから王家の人にまで気楽に接する人だった」
 
 自身通算3度目、英国人選手にとっては最後の優勝となった1936年のウィンブルドン決勝でペリーは6-1、6-1、6-0でゴットフリート・フォン・クラム(Gottfried von Cramm、ドイツ)をわずか40分で退けている。

 フォン・クラムもまた波乱の人生を過ごしており、1938年に同性愛で逮捕されて6か月間収監されると、1976年にエジプトのカイロ(Cairo)で自動車事故により死亡した。(c)AFP