【9月5日 AFP】北朝鮮の元工作員、金東植(キム・ドンシク、Kim Dong-Sik)氏(51)が受けた徹底訓練には、爆弾製造など典型的な内容のほか、韓国の何百曲ものポップソングやダンスの習得も含まれていた。

 韓国社会に同化することを目的としたこうした戦略は、疑われるのを回避するのに必須と考えられている──。最近出版した自伝の中で、金氏はこう語っている。自伝では、謎に包まれた北朝鮮工作機関の活動の一部が明らかにされている。

 金氏は潜入した韓国で1995年に逮捕され、何年にもわたり尋問を受けた後、共産主義と縁を切り、韓国の情報機関に加わった。

 自伝によると、17歳の時に工作員訓練生に抜てきされ、平壌(Pyongyang)にある工作員養成機関、政治軍事大学に入学。金氏は、容姿や家柄、学校の成績、そしてなによりも、北朝鮮最高指導者への揺るぎない忠誠を考慮した国家審査で毎年選抜される200人のうちの一人だった。

 厳選された訓練生は、大学キャンパスを離れることも、家族も含め、大学の外の人と連絡を取ることも許されなかった。家族に送る年賀状だけは例外だったが、差出人住所を書くのは禁じられていた。

 大学では過酷な訓練の日々が続いた。武術や射撃、爆弾製造、壁登り、地質学、モールス信号、航海術──。これら訓練はすべて、必須のイデオロギーの授業と組み合わせられた。

 がっちりした体型で穏やかな口調の金氏は、ソウル(Seoul)で行われたAFPのインタビューで、任務のため常に命を犠牲にする覚悟を持て、と教官から繰り返し叩き込まれたと話した。工作員は身柄を拘束されそうになった場合、生け捕りにされ尋問を受けるよりは、青酸カリの入ったカプセルを飲んで自殺するべきとされた。「死のことが常にわれわれの肩に重くのしかかっていた。20歳の青年には非常に重い負担だった」と金氏は振り返る。

 卒業後は、潜入先の人間として通るよう訓練することに焦点が当てられた。拉致された韓国人などの指導の下、訛りの習得や、資本主義国・韓国の社会的・政治的文化の理解に努めた。この「エネマイゼーション(敵との同化)」の過程で、訓練生は孤立した北朝鮮の外にある世界を初めて味わうことになった。韓国でおなじみのテレビや映画、雑誌、新聞、本を吸収し、ポップソングやダンス、芸能人やスポーツ選手の名前や経歴も暗記した。

 教材からうかがい知る韓国は、北朝鮮が発信してきた「米国の帝国主義の下で苦しむ貧しい操り人形たち」というプロパガンダとはかけ離れていたが、「私たちの忠誠心はそのようなことでは揺るがなかった。私たちは、韓国では金持ちの資本家たちが富を独り占めしていると教え込まれており、それを疑うことはなかった」と金氏は語る。

 約10年間の訓練を経て、金氏は1990年に韓国へ送られた。韓国の親北左派を取り込むことや、韓国で巨大なスパイ網をあやつる李善実(Ri Son-Sil、リ・スンシル)工作員を本国に呼び戻すのに協力することを任務として与えられた。

 李工作員の名は2年後の92年に韓国で大きく報道された。数十人の親北左派が、80年代に李工作員のスパイ活動に協力したとして逮捕されたのだ。一方の金氏の任務は成功し、本国に戻ると「共和国英雄」の称号を授与された。

 95年、金氏は2人組のチームとして再び韓国へ潜入する。韓国の僧侶を装った北朝鮮工作員が、二重スパイとして韓国の情報機関と協力している疑いがあり、この工作員を必要であれば強制的に本国へ戻すことが任務だった。ところが情報が韓国側に漏れており、金氏とそのパートナーは韓国の警察に追い詰められた。銃撃戦の末、パートナーは射殺され、金氏は負傷して身柄を拘束された。

 金氏は、韓国軍情報部によって拘束された4年間について詳細へのコメントは避け、「非常に困難」だったとだけ述べた。最終的に金氏は収監されず、北への忠誠心を捨てた韓国情報機関の分析官として採用された。

 金氏の寝返りに対し、北朝鮮政府はそう寛大ではなかった。金氏は後で、北朝鮮に残した両親が自身の逮捕後に「排除された」ことを知った。これは収容所に送られたか、処刑されたかのいずれかを示す。「北朝鮮の政府からしてみると、私は2度失敗した。任務での失敗と、逮捕される前に自殺しなかったことの両方でだ」と金氏は語った。

 韓国で新たな人生をスタートさせた金氏は結婚して2人の息子を持ち、北朝鮮の工作戦略に関する論文で博士号も取得した。「私の人生はかつて劇的な出来事であふれていた。死が常に頭上にぶらさがっているような日々がずっと続いた。今は普通のこと、静かな生活がいかに有り難いかをと学んだ。このまま年老いて、死ぬことができたらいいのだが」

 金氏は今もプライバシーは明かさず、正面から写真を撮られることも拒む。この自伝は、2人の息子が「いつか私の過去を理解できるように」との思いで書いたという。また、「鬱積(うっせき)した思いを晴らしたかったのと、あまり知られていないこの歴史の一片を記録に残したかった」とも付け加えた。(c)AFP/Jung Ha-Won