【3月14日 AFP】中南米から初めてローマ法王に選出されたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)枢機卿(76)は、アルゼンチンの慎ましい鉄道員の家庭に生まれ、労働者階級出身の典型的な一面を持つと言われている──。

 毎朝4時半に起床し、社交には縁遠い。夜は9時には就寝しており、夜11時に食事をとることもある多くのアルゼンチン人とは異なる。ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)やドストエフスキー(Fyodor Dostoyevsky)といった作家を好むとされる。

 ただし地元のタンゴ・クラブとサッカーチームへの情熱だけは特別で、まだ少年だった1946年からずっとブエノスアイレス(Buenos Aires)のチーム、サン・ロレンソ(San Lorenzo de Almagro)をサポートし、クラブカラーの赤と青のエンブレムを持って写真撮影にも応じている。

■人柄は控えめで穏やか

 新法王は、フランシスコ会の創設者「アッシジの聖フランシスコ(St Francis of Assisi)」に由来する法王名を選び「フランシスコ1世(Pope Francis)」と名乗った。清貧な生涯を送ったとされるこの聖人同様、今も清貧を心がける人物と言われる新法王は1936年12月17日、鉄道員の父と主婦の母を持つイタリア移民家庭に生まれた。

 国営の学校に通った後は化学技師を目指していたが「17歳のときにサン・ホセ・デ・フローレス教会の告解室で啓示を受け、聖職への道を選んだと、友人のガブリエル神父は語る。22歳でイエズス会に入り哲学の学位を取得。さらに神学を学び、69年に聖職を授けられた。チリや、後にはドイツで学んだこともあり、イタリア移民という家庭背景やドイツへの留学経験が、「コンクラーベ(ローマ法王選出会議)」の場での高い評価につながったとの見方もある。今回のコンクラーベでは、欧州出身者が選出されると、大方が予想していた。

 ブエノスアイレス大司教としての彼を知る人々はその人柄について、控えめで話し方も穏やか、そして上流社会とは縁遠いと評している。現在も公共のバスを利用し、食事は自分で作る。また(その地位にもかかわらず)会うことも難しくないことで知られている。カトリック教会の左傾化を止めようと力を注いできた一面も伏せ持つが、枢機卿として与えられる豪邸ではなく集合住宅の一室に住んでいたことから、反貧困運動の活動家らからは歓迎されている。

■「教義的には保守的、社会問題に関しては進歩的」

 アルゼンチンでは、イエズス会は特に教育を中心に最も進歩的なカトリック教会の組織に属するとされているが、新法王自身は思想的にはむしろ主流派とみなされている。ブエノスアイレスのクラリン(Clarin)紙で宗教関連の記事を執筆するセルヒオ・ルビン(Sergio Rubin)氏は「教義的には保守的だが、社会問題に関しては進歩的」と評する。例えば国際通貨基金(IMF)や現代の市場資本主義を激しく批判してきたが、その一方で「解放の神学」を否定しているため、左派寄りのアルゼンチン人の間での評価は分かれているとルビン氏は指摘する。

 弱冠36歳でアルゼンチンのイエズス会の長に指名されたが、その任に就いた6年間は軍事政権下の困難な時代だった。ベルゴリオ枢機卿は当時、南米諸国の右派政権に対抗する政治活動に多くのカトリック聖職者を引き入れていた「解放の神学」の運動にイエズス会が合流することを阻もうと苦心した。元報道官のギジェルモ・マルコ(Guillermo Marco)氏は「イエズス会の非政治化を維持する」という簡潔な宣言を憶えている。

 しかしベルゴリオ枢機卿は、時のアルゼンチン政権と度々対峙もしてきた。故ネストル・キルチネル(Nestor Kirchner)前大統領の時代には「われわれは恥ずべきほどの貧困と病に暮らし、すべては正義の欠如によるもの」と糾弾した。前大統領の死後はその妻だったクリスティナ・フェルナンデス・デ・キルチネル(Cristina Kirchner)現大統領の政権との距離を縮め、同大統領の中絶反対の姿勢は称賛したが、同性婚法制化の際には衝突、「これは単なる政治闘争ではない。神の計画の破壊だ」と激しく非難した。

 ベルゴリオ枢機卿のより広範な神学的立場は、中南米で広がりつつあった左派寄りの「解放の神学」を抑える対抗運動を法王として指揮したヨハネ・パウロ2世(John Paul II)ら主流派の見解に沿うものだ。このヨハネ・パウロ2世によって92年、ブエノスアイレスの補佐司教に指名されたことから、法王への階段を上り始めた。(c)AFP/Daniel Merolla