【6月10日 AFP】南アフリカのヨハネルブルク(Johannesburg)郊外、リボニア(Rivonia)にあるリリーズリーフ農場(Liliesleaf Farm)は、一見すると普通の農場だ。しかし実際は、あのネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)氏が青のつなぎを着て労働者を装い、反アパルトヘイト(人種隔離政策)を掲げる指導者らと秘密裏に政府転覆計画を練った場所なのだ。

 この農場がこのほど博物館として生まれ変わり、9日から一般公開されている。

 1961年10月から翌年1月までここで過ごしたマンデラ氏は、身元を偽って労働者を装いながら、アフリカ民族会議(ANC)の軍事組織作りに奔走。1962年には活動資金集めのために国外に出て、帰国後すぐ、無断に国外に出たとして逮捕され、5年の刑を受けた。 

 翌1963年7月11日、リリーズリーフ農場の存在が発覚し、警察の家宅捜索を受ける。捜索中、ゲリラ戦の計画に関する書類が見つかったとして、服役中のマンデラ氏は国家破壊活動の罪で裁判にかけられた。

■理想のために「死もいとわない」
 
 このいわゆるリボニア裁判でマンデラ氏は「死もいとわない」という有名な言葉を残した。民主主義や自由な社会という理想を現実のものとするためなら、命も惜しくないという意味だ。

 マンデラ氏をはじめとする容疑者らは終身刑の判決を受けたものの、彼らが掲げた理想への国際的関心は裁判を通じて大いに高まった。マンデラ氏が釈放されたのは1990年になってからのことだ。

 リリーズリーフ農場でマンデラ氏とともに活動し、1963年に逮捕されたデニス・ゴールドバーグ(Dennis Goldberg)氏(75)は当時を振り返り「農場では身の危険がなかったので、彼は戦争や平和、政治理論、マルクス主義、資本主義、社会民主主義に関する本を読んでいた」と話す。70人が犠牲となった1960年のシャープビル虐殺事件を機に、マンデラ氏は「武装闘争の必要性」を感じるようになったという。
  
 農場には、ターボ・ムベキ(Thabo Mbeki)大統領の父親のゴヴァン・ムベキ(Govan Mbeki)氏やウォルター・シスル(Walter Sisulu)氏ら名だたる活動家も暮らしていた。

 農場の存在が明らかになったのは、そこで開かれる集会に外部の者もしばしば出入りしていたためではないかと、ゴールドバーグ氏はいう。博物館のガイドは、家宅捜索に踏み込んだ警察はどこに何があるかをあらかじめ正確に知っていたと語った。 

 マンデラ氏は、農場を去るときにメモを一切焼却するよう命じたが、同志は「歴史的価値がある」と判断して敷地内の石炭貯蔵庫に隠した。警察はこれも見つけ出し、メモの内容から、マンデラ氏には国家反逆罪が適用された。

 彼の釈放から4年後、南アフリカは初の全人種選挙を実施し、マンデラ氏は大統領に選出された。

 ゴールドバーグ氏は農場について「自由のために信念と勇気をもって戦った人々の場所」だと語った。「自由は闘争から生まれる……それが、リリーズリーフの遺産です」(c)AFP/Charlotte Plantive