【5月16日 AFP】10年前にミャンマーを離れ日本にやってきた渋谷ザニー(Zarny Shibuya)さん(23)は、現在東京のファッション界で注目される若手のひとりだ。モデルからデザイナーに転向し、スポーツウェアからレディースウェアまで斬新なデザインを世に送り出している。

 あるレコード会社の歌唱コンテストの決勝戦に勝ち進んだとき、渋谷の巨大電光掲示板に自分の顔が大きく映された。これがスカウトの目にとまったことが、ザニーさんのキャリアの出発点だった。名前の「シブヤ」は、そんな渋谷に敬意を表したものだ。

 穏やかで丁寧な話し方からは、外国の雰囲気は微塵も感じられない。ましてや、父親が20年前にミャンマーの民主化要求デモに参加した活動家であり、その息子であるがゆえに軍事政権のブラックリストに載せられているとは。

■8歳の時に日本へ
 
 日本は少子高齢化が急速に進んでいる国の1つだが、移民や難民の受け入れには極めて消極的だ。ザニーさんは8歳の時に母親と共に日本にやって来た。「ビルマのコミュニティーから外れて日本にいる限り、日本人として、ビルマに帰らないと覚悟して生活してきた」と、ザニーさん。母親からは「全部を受け入れるように」とさとされたという。

■普通の「10代らしい生活」

 バイトに応募してもなかなか受からなかった。「ファストフード店も駄目で、友達の名前を借りて『日本人です』と言いきった。『顔黒いね』と言われても『いえ日本人です』と笑いながら答えた」とザニーさん。出来事を「受け入れ」、次にどうすればいいかを考えた。

 学生時代には委員や部活の部長をやった。「普通に流行っているロックも聴くし、みんなが着てる服も着る。欲しいものはバイトで貯めたお金で買うし。みんなと一緒の10代らしい生活。僕は普通の一人の人間。別にかわいそうではない」

■最近の日本はそこまで「硬くはない」

 「最近の日本社会は、欧米社会が思ってるほど硬くはない。こっちがしっかりしていれば大丈夫。ステレオタイプ、固定観念などはどこの社会にもあるので、それをうまくやっていかないといけない」。ただし「難民であることをつい最近まで隠していたことは、一番辛い気持ちだった」とつぶやく。

 ザニーさんは、日本の難民には「マナー」が必要と指摘する。「僕達みたいな難民を受け入れてくれる国の政府が認めてくれるような人材になっていかないといけない。責任を持ってこの社会にいるからこそ、社会に溶け込み、社会に貢献できる人材にならないといけないとずっと思ってきた」

■20代は「開けていて国際的」

 また、同世代の日本人は国際意識が高いと話す。「日本の文化や人の考えは10年毎に大きく変化すると思う。僕の世代の子は、世界に対して開けていて国際的」。いつかデザイナーとして一人前になったら、ミャンマーからインスパイアされた作品を発表したいと語った。

■「ハードルはとても高い」

 だが、日本の文化に溶け込みたいと思っても、外国人への偏見が根強い日本社会で「全部飲み込む」ことは時にひどく苦い経験となる。ミャンマーの活動家だったイースター・セン(Easter Seng)さん(42)は、日本で生まれた4人の娘は学校で毎日のようにいじめを受けたと語った。「娘たちは、名前を日本語に変えてと泣きながらせがんだ。日本政府に特別在留許可をもらったので感謝しているけど日本での生活は満足できない。政府はもっと外国人に優しくして、外国人のことをもっと勉強していろいろサポートして欲しい」(c)AFP/Kimiko de Freytas-Tamura