【10月6日 AFP】(一部更新、写真追加)8日はアルゼンチン生まれのキューバ革命の英雄、エルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara)の没後40年目に当たる。そのストイックで自己犠牲的な生き様から、ゲバラは世界各地の左翼勢力の象徴的存在となっている。一方で、数奇な人生を歩んだゲバラの影響力は今も残り、彼をテーマにした映画や著書が次々に登場している。

「ゲバラ伝説」が現在も色濃く残る共産主義国キューバでは、学童らが毎朝こんな誓いの言葉を述べているという。「共産主義の先駆者、チェ・ゲバラのようになろう」 

 ゲバラは1967年10月8日、ボリビアのジャングルで同国政府軍兵士と米中央情報局(CIA)職員2人に捕らえられ、翌日の午後、処刑された。39歳だった。

■ゲバラ神話に再び脚光

「ゲバラの革命神話」が再び脚光を浴びたのは、その後かなりの歳月を経た1997年7月に、彼の遺骨がバリェ・グランデ(Valle Grande)の飛行場で発見されてキューバに送られた時のことだった。遺骨は盛大なファンファーレとともに首都ハバナ(Havana)の通りを運ばれ、フィデル・カストロ(Fidel Castro)国家評議会議長が見守る中、サンタクララ(Santa Clara)に建つ霊廟に収められた。サンタクララは、キューバ革命当時、ゲバラが重要な戦闘を行った場所だ。   

 カストロ政権下のキューバは当時、困難な経済状態にあったことから、一部の専門家は、キューバ当局がこの出来事を利用して経済的苦境から国民の目をそらそうとしたのだと見ている。そのほか、この件について同情的な見方をする人たちは、いかなる背景要因も時期も関係なく、キューバ政府は常にゲバラを左翼革命の象徴的な存在として扱い、国民に対し苦難に耐えるよう訴えたのだと考えている。

■革命家としての数奇な人生

 ゲバラは母国アルゼンチンで医学を学んだ後、メキシコでフィデルとラウルのカストロ兄弟と手を組み、米国から支援を受けていたキューバのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)独裁政権の打倒を目指して武装ゲリラ闘争に参加した。1959年1月には革命軍が首都ハバナを制圧。新政府内でゲバラは農業担当閣僚および国立銀行総裁を歴任した。そして1965年、世界中に革命を輸出しようと考えたゲバラはアフリカのコンゴ(旧ザイール)に渡り、続いてボリビアに向かった。

 ゲバラは当初、キューバ革命をソ連型の社会主義革命に導いたが、後年、西側諸国との関係をめぐりソ連と路線対立した。

 ゲバラがペルー人革命家の女性との間にもうけた娘は、すでに死去している。一方、キューバ人女性Aleida Marchさんとの間に生まれた4人の子どもは、現在も全員健在だという。

■「ベレー帽をかぶったゲバラ」は世界で最も有名な写真

 1960年にキューバ人カメラマンのアルベルト・コルダ(Alberto Korda)が撮影したベレー帽をかぶる長髪のゲバラの顔写真は「20世紀の世界における最も有名な写真」とされている。その後1960年代には、この写真が世界中で多数のTシャツやリュックサックなどに印刷され、若者やスポーツのスター選手たちが身につけた。(c)AFP