【12月21日 AFP】ローマ帝国の3個軍団がゲルマン諸部族に敗れたトイトブルクの森(Teutoburg Forest)の戦いの後に起きたとみられるローマ軍とゲルマン部族の戦闘で使われた武具などの遺物が、ドイツ中部で見つかった。

 トイトブルクの森の戦いから2009年で2000年を迎えるが、この戦いに敗れたローマ帝国は欧州北東部への領土拡大を断念し、ライン(Rhine)川まで後退して川沿いを境界とすることになったと伝えられている。今回発見された遺物は、その約200年後にあった戦いのものだ。

 今回の考古学的発見のきっかけは、金属探知機を使ったアマチュア考古学者らがローマ時代の多数の武器などを発見したことだった。発見現場は中部ハノーバー(Hanover)とカッセル(Kassel)の間にある、松の木が茂る丘陵地域だが、盗難防止のため正確な位置は明らかにされていない。来年の夏に本格的な発掘が行われる。

 2006年から現場を調査している考古学者らによると、流血の戦闘は移動経路につながる細い道で発生し、射手や騎馬隊が参加したという。射程300メートルの石弓を装備したローマ兵士約1000人が戦ったとみられるという。

 現場の保存状態は過去に例がないほど良好で、これまでにやり、矢じり、おの、甲冑(かっちゅう)のメッキ、テント用ペグ、石弓の矢、また硬貨など、約600点が発見されている。

 発見された硬貨の中にローマ皇帝コモドゥス(Commodus、在位紀元180-192年)が描かれたものがあり、剣や馬車の破片は戦闘が紀元3世紀前半に行われたことを示している。また、矢じりはローマ側にペルシャや北アフリカからの射手が参加していたこと示唆している。ローマ軍兵士が通った道は、履いていたサンダルから落ちたくぎから特定することが可能だ。

 ただし、戦闘でどちらが勝ったのかは分かっていない。

 ゲルマン側の遺物がほとんど発見されてないことから、埋葬するため戦死者を運び出したのではないかと考えてられいる。一方、他の戦場とは異なり、戦死者の持ち物が奪い取られていることはなく、ローマ兵の死体は、甲冑(かっちゅう)や武器を着けたまま、倒れた場所にそのままにされていた。

 考古学者らは、ローマ軍は敵地深くに侵攻した後、南西約200キロ先のローマに帰国するところだったのではないかとみている。矢じりの80%は戦場の南側から発見されたのは、軍団はその方角に突破しようとしていたことを示しているという。

 歴史学者らはこれまで、トイトブルクの森の戦いで戦死者数千人を出す大敗を喫したローマ帝国は、ライン川東岸での軍事作戦を、短期間の討伐に制限したと考えてきた。

 自らもゲルマン諸部族の討伐に参加したことがあるローマ初の軍人皇帝、マクシミヌス・トラクス(Maximinus Thrax、在位期限235-238年)が軍を率いて北海に向かったことを示唆する資料も存在するが、歴史学者のミヒャエル・ゲシュヴィンデ(Michael Geschwinde)氏によると、従来、それらの資料は信頼性が低いとみられていた。

 しかし、発掘に参加している考古学者のヘニング・ハスマン(Henning Hassmann)氏は、「今後は歴史的資料を見直す必要があるだろう」と指摘している。(c)AFP/Martin Wortmann