【7月16日 AFP】生活保護に頼るシングルマザーとして、苦労して『ハリー・ポッター(Harry Potter)』を生みだし、今では、世界で最も裕福で有名な作家の1人となったJ・K・ローリング(J.K.Rowling)とは、どういう人物なのだろうか。

■6歳に初めての物語

 1965年7月31日、英国西部のブリストル(Bristol)郊外で生まれ、ジョアンヌ(Joanne Rowling)と名付けられたローリングは、わずか6歳で最初の物語を書いた。一匹のウサギとその友達を描いた内容だったという。

 ごく普通の子ども時代を過ごしたというローリングは、その子ども時代にひたすら書き続けた。十代の数年間は、多発性硬化症と診断された母親の病状が暗い影を落とした。

 18歳でエクセター大学(University of Exeter)に入学。社会に出て役立つようにとフランス語を専攻した。両親は、フランス語を学ぶことで、ローリングがバイリンガルの事務員になれると考えていた。しかし、ローリングは別の希望を抱き、国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)で働くなど、ロンドンでさまざまな仕事に就いた。

■ハリー・ポッター誕生

 1990年、既に2つの小説を書き上げていたローリングは、マンチェスター(Manchester)からロンドンに向かう列車の中で、ハリー・ポッターのアイデアを思いついた。自身のホームページでローリングは「6歳からずっと書き続けていましたが、ひとつのアイデアにあれほど興奮した経験はありませんでした」と明かしている。

 ハリーのアイデアを思いついたその夜、シリーズ第1作となる『ハリー・ポッターと賢者の石(Harry Potter and the Philosopher’s Stone)』の執筆をスタートさせた。そして執筆を続けながら、当時の恋人と共にマンチェスターに引っ越した。

 しかし、1990年の年末に母親が亡くなると、翌年、ローリングは悲しみからポルトガルに移住。ハリー・ポッターの原稿を手に、現地の語学学校で英語を教える傍ら、物語を書き続けた。また、現地のジャーナリストと結婚し、第一子となるジェシカ(Jessica)ちゃんを出産した。しかし、結婚生活は長くは続かず、1994年後半、ローリングは帰国し、エディンバラ(Edinburgh)に住居を構えた。
 
 幼子を抱え、わずかな所持金しか持たないローリングは、生活保護に頼って暮らしていた。子どもに食べさせるため、自分は何も食べないことがあったという。それでも、わずかな時間も惜しまず書き続けた。「ジェシカが乳母車の中で眠ってしまうと、近くの喫茶店に駆け込み、狂ったように書き続けました」と同ホームページでローリングは語っている。この喫茶店とは、彼女の義理の弟が経営していたエディンバラ南部にある小さなレストラン「Nicolson’s Cafe」のことだ。

 1995年までに、『ハリー・ポッターと賢者の石』は完成。しかし、これは、ローリングの作家としての苦労の始まりに過ぎなかった。

■出版への長い道のり、そして成功

 ローリングが最初に原稿を持ち込んだ出版社は、これをはねつけた。2社目は、興味を示した。そして、1996年8月、ローリングの代理人が、ブルームズベリー(Bloomsbury)からオファーがあったと知らせてくれるまで、12社に却下されたという。

 出版に当たり、女性の名前では、男性の読者を遠ざける可能性があるとの出版社の提言から、ローリングはJ・K・ローリングと改名。Kは、彼女の「大好きな祖母」、キャスリーン(Kathleen)にちなんだ。

 『ハリー・ポッターと賢者の石』はベストセラーとなった。その後出版した第2巻、第3巻で、ローリングは文学界での確固たる地位を築き、第4巻で、誰もが知る有名人となった。

 2000年、エリザベス女王(Queen Elizabeth II)より、大英帝国勲章(Order of the British EmpireOBE)を受勲。The Book Magazineが実施したアンケート調査では、生存する最も偉大な英国人の作家に挙げられた。2001年には、医師のニール・マレー(Neil Murray)氏と結婚。長男のデビッド・ゴードン(David Gordon)くん、次女のマッケンジー・ジーン(Mackenzie Jean)ちゃんの2人の子どもをもうけている。(c)AFP/Prashant Rao