【9月6日 AFP】6日に71歳で死去したイタリア人テノール歌手、ルチアーノ・パバロッティ(Luciano Pavarotti)氏は、現代の最も偉大な歌手の1人と考えられ、クラシック音楽の枠を超えた功績を収めた人物だった。

 オペラで人気のテノール歌手の中でも、パバロッティ氏は力強い歌声が魅力で、従来のコンサートホールのみならず、巨大な屋外ステージでも美声を披露し、多くのファンを魅了した。

■パン職人の家に生まれ、オペラ歌手に

 1935年10月12日、イタリア北部の静かな町モデナ(Modena)に、パン職人の一人息子として生まれた。父親がオペラ好きだったことと、ちょっとした歌唱力を持ち合わせていたことが、この少年の未来を決めた。

 教師として働きながら6年間勉強し、1961年にコンクールで優勝。レッジョ・エミリア(Reggio Emilia)の劇場で公演されたジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)の歌劇『ラ・ボエーム(La Boheme)』で、ロドルフォ(Rodolphe)役でデビューした。

 以降、パバロッティ氏の評判は徐々に上がり、1963年にはアムステルダム(Amsterdam)、ウィーン(Vienna)、チューリヒ(Zurich)、ロンドン(London)などで公演を行うまでになった。

■「高音の王様」、実は楽譜は苦手だった

 1965年2月には、米フロリダ(Florida)州マイアミ(Miami)で、ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)の歌劇『ルチア(Lucia di Lammermoor)』でソプラノ歌手ジョーン・サザーランド(Joan Sutherland)と共演、米国デビューを果たす。

 サザーランドとは1972年2月にも、ロンドンのコベントガーデン(Covent Garden)、およびニューヨークのメトロポリタン・オペラ(Metropolitan Opera)において、ドニゼッティの『連帯の娘(La Fille du Regiment)』で共演。このころ、テノール歌手として絶頂期を迎えたとされる。

 最初のアリアでも容易に高音を出せるパバロッティ氏は、「キング・オブ・ハイC(高音の王様)」の愛称で親しまれ、その歌声に観客はスタンディングオベーションで応えた。

 ただ、楽譜の読み方を本格的に学んだ経験はなく、自分の役柄を覚える方を好んだ。その結果、一度にひとつずつしか覚えることができず、素晴らしい能力を持ちながら、そのレパートリーは驚くほど限られていた。

■クラシックの垣根を越えた共演で成功

 一方で、ポップミュージシャンなどとさまざまなライブコンサートで共演し、観客を驚かせた。1991年にはロンドンのハイドパーク(Hyde Park)で、チャールズ皇太子(Prince Charles)とダイアナ妃(Princess Diana)を含む観客15万人を前に歌声を披露した。

 1990年のサッカーW杯イタリア大会では、パバロッティ氏が歌うプッチーニのオペラ『トゥーランドット(Turandot)』のアリア『誰も寝てはならぬ(Nessun Dorma)』が大会テーマソングに選ばれ、世界の注目を集めた。

 近年は、ホセ・カラーレス(Jose Carreras)、プラシド・ドミンゴ(Placido Domingo)と共に3大テノールとして活躍するほか、故郷モデナでは毎年、『パバロッティと仲間たち(Pavarotti and Friends)』と題したチャリティー・コンサートを開催。こうしたコンサートにはエルトン・ジョン、エリック・クラプトン、ズッケロ、スパイス・ガールズなども参加し、子どもたちのための多額の寄付を行った。

■社交欄にも登場、晩年は病気と金銭問題で苦労

 パバロッティ氏の成功は、新聞の社交欄をも賑わせた。1996年、35年間連れ添った妻と3人の娘と離婚し、秘書だったニコレッタ・マントバーニ(Nicoletta Mantovani)と交際。2003年に結婚し、第1子が誕生した。

 近頃は、自身の体重が健康を害す要因となっており、税金に関する問題も抱えていた。報道によれば、数百万ユーロに上る滞納金を支払っていたという。(c)AFP