【5月13日 AFP】第62回カンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)のコンペティション部門に出品される映画『Vincere』では、歴史の闇に埋もれた、イタリアの独裁者ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)の愛人と隠し子にスポットが当てられる。

 マルコ・ベロッキオ(Marco Bellocchio)監督(69)は、この作品で、第2次世界大戦前のイタリアで、権力掌握の足かせになるかもしれないという思いから、ムソリーニが愛人と子どもを隠したいきさつを描いている。

「私が描くムソリーニは、唯一の間違いはヒトラーと同盟を結んだことだけだとテレビでときどき描かれるような優しい人物ではない」―ベロッキオ監督は、イタリア紙コリエレ・デラ・セラ(Corriere della Sera)にこう語っている。「ムソリーニは、暴力的で計算高く、無慈悲な男だった。愛した女性や息子に対しても、だ」

 この作品は、Marco Zeni氏の著書『Mussolini's Wife(ムソリーニの妻)』とAlfredo Pieroni氏の著書『The Secret Son of Il Duce(ムソリーニの隠し子)』からアイデアを得て制作された。

■ムソリーニを支えた3つ年上の愛人

 1914年、31歳だったムソリーニは社会党に所属。日刊紙『アバンティ!(Avanti!)』を編集し、後に結婚することになる女性ラケーレ・グイディ(Rachele Guidi)と、ミラノ(Milan)北部で暮らしていた。

 しかし、女性関係は派手だった。多くの女性と交際し、その中に3つ年上でビューティーサロンを経営していた意思の強い女性アイダ・アイリーン・ダスラー(Ida Irene Dasler)もいた。

 アイダは、イタリアの第2次世界大戦参戦を擁護したため社会党を除名されたムソリーニを献身的に支えた。さらに、ムソリーニが独自の新聞ポポロ・ディタリア(Il Popolo d'Italia)を発行したときは、サロンを手放してまで資金を援助した。

 2人は1914年に結婚したという説を唱える歴史家やジャーナリストがいるが、これには異論もある。

 15年8月、ムソリーニが前線へと出征したとき、アイダは妊娠7か月。11月11日、息子のベニト・アルビノ(Benito Albino)が生まれる。

 アイダはムソリーニに手紙で息子の誕生を伝えたが、返事はなかった。しかし、ムソリーニが黄疸で入院したと聞くと、息子を抱えて病院に向かった。その前日、ムソリーニは病院で、ラケーレと結婚していた。

 しかし、ムソリーニはアイダに息子の認知を約束。数か月後に前線へ戻ったが、その前に約束を果たした。月々の養育費も送った。

■愛人と子どもに背を向けたムソリーニ

 だが、ムソリーニはすぐに2人を見捨てた。手紙を無視し、警察にアイダを監視させた。アイダは根気強く手紙を書き続け、当局に現状を訴えた。

 22年11月、権力の頂点に立ったムソリーニは、アイダがさらに波風を立てないよう、さらに厳しく監視させた。

 26年、ムソリーニが報道や反対者を抑えつけ独裁者となると、アイダはとらえられ精神病院に送られた。息子は母親から引き離され、家庭教師をつけられた。

 その後、さらに2つの施設へ送られたアイダは面会や手紙のやりとりも禁止され、37年、57歳で死亡した。

 母親と引き離された当時11歳だった息子は全寮制の学校で学び、18歳で海軍に入隊した。ムソリーニは息子に会うことはなかったが、常に監視していた。

 息子が母親の家族と交流しているという事実に困った当局は34年、通達なしに息子をアジアへ派遣した。翌年、イタリアに戻ってきた息子は病院に入れられ、1936年、母親と同じように精神病院に入れられた。6年後、26歳で死亡している。

 母親と息子の遺体は、墓標のない墓に埋葬された。(c)AFP/Emmanuelle Andreani