【2月29日 AFP】東日本大震災被災地での取材から約1年が過ぎようとする中、AFPの山中徹(Toru Yamanaka)カメラマン(53)は復興の経過をカメラに収めるべく、被災地を再び訪れた。だがベテランカメラマンの山中にとってもこれは容易な仕事ではなかった。

 冬のある日、山中は風の通り抜ける空っぽの土地となった被災地、陸前高田市に立っていた。

 そこには前年3月に見た痛ましい光景は何一つ残っていなかった。津波の去った数日後に山中が見た木造家屋の破片や折れ曲がって大破した車、散乱した日用品の数々は、すべて消えていた。

 だがそれらとともに、そこにかつて存在していた町も同じく無くなっていた。

 山中は、「この震災をすごく象徴していると思った」と目の当たりにした光景を語る。「ここに町があって、人が住んでいて、生活の場があった。会社があって、通勤したりしていた。それがすべてなくなってしまった」

 AFPで25年間働いてきた山中にとって、母国日本で発生した巨大自然災害を取材するのは今回が初めてではない。1995年には、6400人以上が犠牲になった阪神・淡路大震災の現場に駆け付けた最初のカメラマンの1人だった。

 だが神戸で目撃した光景も、前年3月11日の大震災直後に被災地入りした山中の前に広がった荒廃に対する心の準備にはならなかったという。

   「神戸とは違う、まずそう思った」と被災地に到着した瞬間を思い返す。「神戸もひどかったけど、今回最初(に)見たとき、これはもう日本じゃないと思った。日本の田舎の風景、そういうものを思わせるようなものはもう何一つなかった。ただもうがれきの山だった」

 震災から約1年が過ぎようとする中、被災地を再訪した山中は、破壊された町が復興するにはとてつもなく長い時間を要するだろうと語る。

   「神戸の地震のあと数か月後にヘリで上空から撮ったけれど、そのときは家々のかたまりがブルーシートで覆われて真っ青だったのが印象的だった。ということは、もうすでに人がそこに住んで生活を始めていたということだ」

    「陸前高田の風景を見たときは、ただもう、この何もなくなってしまった土地をいったいどうするんだろうと思った」

■「変化」を伝えようと探す、同じアングル

 山中は今年1月、同僚のAFPカメラマンたちと前年3月にカメラに収めた土地を、1週間かけて再び巡った。同じアングルから撮影して、どこがどう変わったのかを世界に伝える意図があった。

 だがこれがとても大変な作業で、中にはあまりにも変わりすぎてわからなくなっている場所もあったという。

 最も甚大な被害を受けた町の1つ、釜石市で山中は、船が岸壁に打ち上げられた場所を探そうとしていた。しかしコンクリートの防波堤を破壊し、住宅のわずか数メートル手前まで迫った巨大な船体はすでに撤去されていたため、その場所がどこだったのかを探す手がかりは非常に少なかった。

 それでもようやく撮影場所を突き止めた。そこで初めて、震災直後の写真では、遠くの山に見える観音像が打ち上げられた船体で遮られていたことに気づいたという。

 他の地域でも、山中は小さな標識や山並みを手がかりに撮影場所を探すことになった。「(最初の写真を撮った)カメラマンがこの震災の後、どのアングルを切り取ろうとしたのか想像した。あとはもう勘。カメラマンの勘だった」

■「毛布の女性」はいま

 震災直後に撮影された石巻市の若い母親を捉えた写真がある。寒さの中で毛布にくるまり、1人息子を捜す痛ましい女性の写真は、世界中の人々の心に突き刺さるものだった。

 しかし、山中が今回撮影した同じ女性の写真は、とてもほほえましいものになった。

 写真には、車両の行き交う道路の真ん中に立ち、息子の手をしっかりと握る母親の姿が写っている。母子は津波の3日後に再会していたのだ。

    「その場所は彼女が覚えていたから。そうでなければ絶対見つけられなかった」と山中は語る。

 この写真を撮影できたことは、2児の父でもある山中にとって素晴らしいことであった。「その3日間というのは、お母さんも大変だったと思うけど、子どもにとってはもう絶望以外の何ものでもなかったと思う。一緒のところを撮れて本当によかった」

(c)AFP/Harumi Ozawa

【写真特集】東日本大震災、被災地の震災直後と今